新建築9月

  • 2012.09.12
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谷口吉生設計、鈴木大拙館。でもなぜ表紙がこの弱気なアングル???とページをめくると、、何となく残念ながら納得してしまうけれど、どうしたんだろう。。コストの壁??谷口さんらしくないなあ。。
鈴木大拙館でもあるから(意味不明)いつか行ってみよう。
さておき、槇さんの論壇「漂うモダニズム」はとてもまとまった読み応えある文章でしたのでそちらに触れましょう。
まず「普遍語」ラテン語や漢語のように新たに出会う様々な人種に対して啓蒙、説得などするために語彙の拡大、洗練、豊穣さを目指したというものと、建築における普遍的な表現の違いから話が始まり、その比較が重要な意味をもつけれど、一方で世界語になった英語がそのような洗練や豊穣を進めたかというと、単なる道具として拡大しただけではなかったか?そして、建築における普遍的な表現、例えばモダニズムも含め、も同様ではないか?
その理由として、一度普遍性を獲得すると、長期に使用される過程で、総体としての劣化や衰退が起るから、と述べられているのだけど、確かにそれはある種の宿命なんだと思う。
そして英語という道具は簡単に交換できないにせよ、建築における表現はもっと容易に変わり得るので、当初のモダニズムは「誰もが乗っている大きな船」的な存在であったのだけど今はそれは霧散してしまい、我々は大海原のうえにいるのではないかと。
その結果なのか、、近年参加したコンペなどで「自分がもっとも重要だと考えていたことに同様に共鳴している案はひとつとしてなかった」「大きな世界の潮流の中で建築とは何かを論じる人は少ない」「『なんでもあり』の時代に突入し、モダニズムが巨大なインフォメーションのプールと化するとともに、思想もスタイルも姿を消す。使命も一緒に」と。
最後の「使命」の一語は、、重たいなあ。
大海原の上だけれども「うねり」はまだあるとし、それは「広義の新しいヒューマニズム」「大将となる建築形態・空間に秘められた、そこで人間をどう考えたかの思考の形式が消費されない社会性を獲得したものへの評価」であると。(そこだけ文字が強調されているので伝えたいんだろう)
具体的に「本が人々に問いかけてくるような図書館、視るものと視られるオブジェによってひとつの世界がつくりだされるようなギャラリー、、、そして『これで安心して死ねます』と市民が言うような葬祭場」と挙げていますが、確かにそれらは形態や表現や時代がいかに変わろうと、本来建築をつくろうという意志の根源にあるべきものなので、当然といえば当然ならがも、でもやはり忘れかけられているのが現実でもあるでしょう。つまり表現のための表現のような建築になってしまっているように思います。
と、その後で掲載されている建築たちを再度眺めると、、やっぱりさらにガッカリしてしまいますw
さて、口だけだね、と言われないようにがんばろう^^