新建築6月/内藤廣さん

  • 2008.06.09
  • BLOG


コロンビア第二の街、メディジン市の若き市長が「短期的に集中的な社会投資をして、絶望的になっている人びとの気持ちを一気に変える」ために行ったプロジェクトの一つだそうで、建築の質が云々というより、内藤さんが書かれているように、日本などではほとんど忘れかけられているけれど、「建築の力」というものが確かにあり、それは、建築の品質や完成度に目が行きすぎることで忘れられてしまっているけれど、特に公共的な建築をつくるというのは、そのまちにとって、一大イベントであり、お祭りであり、そこに住む人びとの生活にもっと密着したものなはずです。
もちろん建築が社会を変える!なんてのは言い過ぎなのは承知の上でも、でもでも、建築には、ひとの心を動かす力はもっているのだけど、今の世の中は、公共建築なんてのは、経済を安定させる道具として(公共投資)単なるお金を動かす道具に成り下がっています。
それで思い出すのが、浜松のフォルテ。
経緯はいろいろあるんだろうけど、行革の主旨も分かるけど、このままでは良くないのは分かるけど、何の反省もなく、跡形もなくなる、というのは、やっぱり建築は経済の道具だと思われてしまっているからでしょう。
経済的でなければいけないのであれば、あんな建築生まれるべきではなかったし、もっと違う価値があるからつくったのであれば、いくら無駄でも残すべきだし。
大切な、建築に対する気持ちというのは全くないわけです。
まあ、いくら私たちが建築に思いを込めても、公共事業なんか、設計者も市民に知らされない。。。良いものも悪いものもあるから、設計者をもっと公表して、もっと責任を持たせないと、フォルテみたいのがまた生まれてくるんだろうと思う。
経済ベースでの議論の一方、それに乗らない部分も同時に考えて欲しいものだと思う。
今日テレビで、なんだか馬鹿な特番で、エコエコ言っていたけれど、「環境」という言葉の裏には、人間中心のエゴが潜んでいいて、人間の物差しでそれを理解して、人間の物差しでそれを解決しようとしています。
二酸化炭素の排出量をお金で取引するなんていうのは、確かに様々な国の間で何らかの目標をつくらなければならなかった中では妙案だとも思うけど、本当に大切なのは、人間の物差しで計ることもできないような、人間なんかにはとても理解できないような、自然に対する「畏れ」を謙虚に感じることだと思います。
話がそれたようでそうでもないのですが、頭で考えられる事なんて、とても浅いものでしかなく、心で感じられることにこそ、本当に重要なことが隠れている。ということでしょうか。