建設業界の体質
以前から知人からのつながりで、とある建設の雨漏り等のトラブルの相談に乗っていて、先日の台風もあったので当事者が集まるからとの事で行ってきました。
僕は基本的には自分でなくても良いような仕事は引き受けないようにしている(偉そうな意味でなくそれがお互いのためなので)のですが、困っている方からのお願いはやはり断るわけにはいきません。
事の詳細を書きたい訳ではないのですが、設計をやっている自分としては明日は我が身でもあり考えさせられる事が多く、具体的にはやはり屋根や庇の無い陸屋根で、風も強い地域なので強い陽射しに無帽で無防備に建つような感じですが、それは世の中にはいくらでもあるタイプではあります。
ここで一番言いたいのは、他の選択肢もある、という事を建築主が十分分かって比較検討した上で無防備な形のものをつくったのであれば良いですが、それを説明すべき専門家の側が本当にそれを説明したのか?防水なんて補償年限に限りがあり、その都度かなりの費用がかかる事を具体的に説明したのか?一方で屋根をかけておけば、という事も検討をしたのか?という事です。
正直屋根をかけると、デザインが面倒くさいです。フラットルーフの四角い建物というのはボリュームや仕上の扱いで何だかカッコ良くしやすいのです。失礼ですが、だから屋根をかけたがらない設計者が多いという事は誰か否定できるでしょうか?
もちろん僕だってたまには四角いものも設計してきたし、これからもたまにはするでしょうけれど、それは十分な比較をしながら必然性が感じられる場合のみしかするつもりはありません。
その必然性の意味の中には、当然今回のような雨漏りやメンテナンスが過大になるおそれを極力取り除く努力をする事も含まれます。
建設業なんて今でこそ10年の瑕疵担保はありますが(といっても10年はシーリング材などで簡単にもたせられる)売り逃げみたいな業界ですから気をつけないといけませんし、本当に困り苦労を続けてこられた方とお会いした事で、自らへの戒めを超えた業界への怒りのようなものを感じたので、またこんな面倒くさい事を書いています(^^;)
でも先の都市計画と同じで、「思考停止」状態だなと残念に思います。が都市計画と違うのは個々が意識を持てばその意識の範囲では変えて行けるのがまだ救いですね。
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前にもお邪魔しました。
haseさんの勾配屋根は、建築の原型が家型なんだということかと、わたしは勝手に思っていたのです。垂木が見えるのも内部からの家型の追求なのかなあと・・
あと、フラットルーフのデザインってじつはとってもムツカシイですよね。
・・trsgr さん途中に入ってごめんなさい
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コルビュジェの5原則は、前の時代までひきずっていたデザインから自由を求めて離陸した、という意味で象徴的だとは思いますし、その時代はそれが自由であった部分はあっても、今となってはその5原則でさえも同様に足かせとなっている状況ですから、今更思想的「矜持」というのもどうかとは思いますよねw。
建築の類型は決して風土だけで決って来ていないというのは明らかだと思いますが、特に日本は地震なんでしょうね。石造が選択肢でない以上木造、でもたまに大火に遭い、江戸的な独特な感性が身に染み付いてしまったのでしょうか?
このブログでは我田引水的になる部分は多少ご勘弁頂きたいのですが、かと言って屋根礼賛をしたわけでなく、今更屋根をかけるからデザインが不自由だというはずはないので対等に選択肢に入って欲しい、という気持ちですし、確かに良し悪しはあるのは当然ですよね。
それにたまに書いていると思いますが,今の住宅建築の大きな流れのひとつの「民家型」という野暮ったいデザインは僕は大嫌いで、それよりは寧ろ陸屋根を好みますw 。
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「無難」「普通」「格好良い」というのはもちろん社会的無意識、つまり歴史的文脈から出て来るものだとは思いますので、それを無批判に受入れるべきではないのですが、かと言ってその時代の先端にある「建築論」によって導かれたものは、恐らく格好良く映るんでしょうけれどいつかはその歴史的文脈に飲み込まれてしまう運命ですよね。
「家型」も歴史的文脈で刷り込まれたものかなとは思いますが、ガウディが自然を観察してつくったものを美しく感じるという意味での形態への拠り所というのがあるように思いますし、それはフラットルーフよりは家型かなと思う程度です。
ではanoneさんは決して住宅にフラットルーフを使ったりされない方なんですよねw
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僕が感じている例の「民家型」は柱間は2間4間を頑なに守り、母屋下屋の昔ながらの間取で梁は渡顎の方が強いんだからみたいな事を遵守すると出来てしまうようなものなのでちょっと対象が違ったかもしれませんw。
片流れは、、微妙ですが僕はある種の折衷の中で生まれて来たように感じてまして、良い意味で使える時は使ってきました。
「前川邸」ですねw以前実物も見ましたが前川さんという先入観が強すぎてどうも未消化のままで、以前に書いたとおり長谷川尭さんの本を読んで少しすっきりしましたが、前川作品全体に流れるあの重たさというのを少し強く感じ過ぎてしまうんです。まあ好みでしかないですし、ある以上の規模になると好ましくも感じ(隈作品が軽薄に感じる裏返しでしょうか)。。ダサイとかではなく、少し息苦しく感じるという感じですね。
「バナキュラーなコレクト」つまり全てに偏見なく単に選択肢の一つとして捉えるという意味なら賛成ですが?その論で言ってしまうと、自由も不自由もないだろ?という事でもありますよね。
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そんな意味で今まで共感できたのは、青木淳さんが「原っぱ、、」で言われていたような、見た事もないけどある質を持つ何か、みたいなので、既視感というのはある種の不自由だという事かなと思います。
そして、鮮やかな、手法的な「新鮮さ」を決して追わない所が、そうあるべきだなと思いますし、手法的ではないから新鮮ではない代わりにそれを失う事もないというか。
普段使ってない部分の脳を使っているので疲れます(苦笑)が好きで返答してますので是非ご遠慮なく!
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>このブログでは我田引水的になる部分は多少ご勘弁頂きたいのですが・・・
以前haseさんのブログで屋根は勾配屋根云々という記事があったように記憶していたので・・ごめんなさいね。別に他意はありません。
形態的には、柱の上に家型がないと(三角形がないと)空間が拡散していってしまうという気がしています。個人的な意見です。
またお邪魔させてください。
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無名の非公開コメントを頂きましたが、ご忠告なんでしょうね。
僕自身とても弱いダメな人間だと自分なりに自覚をしていますし、ある時期からその念を強くし、決して自分が生きるに値する人間だとも思っていません。人間誰しも弱いものだと思っていますが、建築によってそれを少しでも支える事ができるのではないかと今の仕事を自分なりに必死で考えてきましたし、それで少しでも何かを良い方向に変えてゆける力になれたら、というか変えてゆくのが使命だと思っています。
偉くも有名にもなりたい訳ではなく、本当はただ静かに生きていたいのですけれど。
またご遠慮なく。