建築の出自

  • 2011.07.10
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あとがきにあるように「設計して実現した建築に、常に自分自身の存在(出自)を、何らかの形で投影し、作品と作家の間を、目に見えない紐帯で結びつけようと」した建築家が取り上げられています。ん?それって当たり前なんじゃ?というのは正しい疑問だと思いますが、でも他の芸術でも何でもそうだと思いますが、自分自身よりもっと大きな、その時点での社会が抱える問題とか理想とか状況を発想の原点にしている事が多く、そしてその方が社会的な理解もされやすく評価も受けやすい、という事もあって、実は上記のような建築家というのは少なく、そしてまた理解がしにくい。個人の内面に向き合っている面が強いので理解しにくくて当然ですし、間違いない読みなんてあり得ない前提ではあるにせよ、面白い読みがされていて良書でした。
まず前川國男。モダニズムの闘将、と一般的には言われて来たけれど,実はそうではなくラスキンの建築の七灯の「真実の灯」、バナキュラー的なものがベースにあって、決して近代合理主義としてのモダニストではなく、寧ろ、村野藤吾の現在主義(様々な様式は単に併存的に捉える)に近かったのでは、というのはとても理解のできる内容ですが、やはりコルの弟子として周囲が祭り上げてしまったので引っ込みがつかなかった、というのも仕方がなかったことなのかもしれないですね。さらに言うとコルビュジェだってある時点からは自分がやりたい何かではなく、周囲が求める何かをやらざるを得なかった面はあったのでしょうから、同じと言えば同じ。
次に白井晟一。っていや無理です。ちょっと分かったつもりになったからと言って軽く書ける方じゃない。
ルイス・カーンは建築について、構成するための何かについて語ったからこそ短絡的に触れる事はできるけど、それもしていなかったら我々に何が語れただろう?というくらいの感じでしょうか。でも言葉は偉大だと思います。見えないものを見えるようにさせる力として。
そんな詩的な意味で真剣に向き合えば、少しずつ分かるものだなと思います。というかじゃなければ分からない方です。
他にも、一般的な評価には乗りにくい建築家たちが取り上げられ、出自から読み解かれていきます。
そしてその出自というのは、今の時代にかなり失われてしまっているような育ちであり、環境であり、その時代が持っていたとても大切な部分、よく使われる言い方だと「原風景」的なもので、それはまあ理屈なんかじゃない何かです。
理屈じゃないからこそ強いわけで、でも、いつからか建築はほとんど理屈(屁理屈??)によってつくられているように見えます。だから軽いのですが、軽さを望まれるから仕方がないのかもしれませんが、開き直ってそれを実践しているようなKKさんの建築は軽薄ですよね。
出自で語れる建築家が多いのはそれだけ文化の深さが深い環境だと思いますし、もちろん逆はそのまんまで、今がそう。
そんな事を考えさせる本でした。