建築というお仕事
昨日書いてアップする前に寝てました(笑)ので昨日の話です。
ちょっと飲んで語り合って、仕事という言葉について考えていました。
「仕事」って漢字は何だか意味ありげだけどちょいと調べる限りでは「仕」というのは「する」という言葉のサ行の当て字のようでがっかりでしたが、僕には「仕える事」というそのまんまの意訳がとても相応しいように思えます。
言い換えれば「天職」というだけなのですが、やっぱり仕事ってそうあるべきで、決して貨幣経済に仕えるんじゃなくて、人間の在るべき姿に仕えるべきものなんだと思います。
人間の在るべき姿って何?というのは、、まあ宗教じみた話になりかねないし、でも宗教的なものが、その世界にも存在し不可欠であったという事を考えても分かるように、人間に足りない何か大切なものの補ってくれたんだと思うので、そんな類いのものだと思います。
でもただ、地球は平面だと思っていた方が良かった時代では今は無いので、今の知の枠組みの中で、今の私たちなりに考えるべき事なのだと思います。
そんな事は多分、言われなくても分かっているはずなのですが、でもそれが出来ない理由は、様々な「足かせ」が私たちを離してくれないかななんでしょうね。。
でもその足かせは、自覚的になれさえすれば、外す事ができるはずです。
でもその自覚的というのがとても欠けてしまっている。
なんでこんな事ばかり考えているのか?というと、建築はとても長く残り、また他人にも否応無しにその存在を押し付けるという、余り他にはない存在ですし、それを考える設計者というのは、数十年以上後に対して責任を負うべきだから、こんな事を考えるのは義務だと思っています。
構造的にきちんとつくったって、人間性にかけた場所であったり、エコだとか言ったって、愛されない建物で早く取り壊されたり、身の回りで工事が始まるたびに悲しい気持ちになります。
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自分の浅学が恥ずかしくなるようなコメント、ありがとうございます。僕は宗教の問題などは、人間が人間の「弱さ」を受け入れ、向き合う事ができるかが大切な問題だと思っていまして、一方「平等」なんて堂々と口にできるのはその弱さに向き合えていないだけなんだと思ったりもします。
乱暴な括り方をすると、西洋と東洋の違いはその辺りかもしれないとも。
アーキテクチャという言葉で広く捉える事はもちろん大切なのですが、僕自身の今は、そんな鳥瞰的なスタンスではなくて、手に触れる身近な事を良くする積み重ねをして、みんながそれをやった結果全体が良くなるはずだという期待で小さな事をネチネチやっているわけです(笑)
大判フロートがあるから今の自分の設計も成り立っているわけではありますが、それが無い時代から存在していた日本建築の質と何も変わったものではなく、ただ、熱や気密環境を整えやすくなったという、つまり性能には寄与しても質的に何かを上げた存在ではないように思っています。
そろそろご正体でも明かしてください(笑)