岡潔さん

  • 2017.11.24
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ここしばらく岡潔さんなのですが、この大切さが顧みられることはもうないのかな。。戦後の、というか明治以降西洋の影響を受け始めてから、日本人が持っていた本当によかった心の状態が失われ続け、教育のあり方など、随分警鐘を鳴らすために著書も多く出され、これもその一部ですが、結局その時の人々には共感は得ても、大きな流れをはね返す事はできなかったということか。

中心的な言葉の「情緒」というのはもともとその意味合いを持っていた訳でもないけれど、岡さんが思われたことに近い、ということで使われていたということですし、最近、情緒なんて言葉を耳にするのは、韓国の「国民情緒法」という、つまりマスコミなどに洗脳されようが、国民の大多数がそう感じていればそれは情緒あり、法にも勝る、なんてトンデモナイところで使われるので誤解を招くと思うけれど、詳しく知りたい方は読んでいただくとして、ざっくりいうと、昔の日本人が普通に持っていた心のあり方、でしかなくて、これだ、と説明は難しいけれど、人も自然も全て共にある、という「のどか」な世界で、仏教的に言えば、「自分」に執着すると生まれてしまう煩悩から離れた状態というのは水が澄んだようになってきて、逆にいうと現代は自我にとらわれて、とても濁った状態だ、というか、、やはりうまく説明できないなあ。。

こんな言い方はされていないけれど、僕なりの解釈は、僕ら人間は、自分が「個」として確固とした存在で、意志を持ち、判断ができ、と思っているけれど、僕らの体の細胞も日々入れ替わり、宇宙的な時間の長さで言えば、一瞬でまた違う物質に流れ行く存在であり、ビッグバン前の恐ろしい高密度の物質からいえば、スカスカの状態であり、イワシに個があるように見えても、群として少しでも生き残るために振舞っているだけで一匹だけ生き残るために勝手な動きなどあり得ないのと同じように、人間もそもそもはそれに近いところから今に至っているのであり、その「個」と思っている自分の肉体の輪郭を、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」に流して感じてみれば、人も動物ももっといえば植物も無機物も境がなく、というまあ八百万の世界だといえばそうだし、そこで情緒が濁るわけがない、ということかと思います。

そこまでは自分なりに(実践できているとは言い難いけど)理解はできているようには思うけれど、岡さんが極めた「数学」や僕にとっての建築や、「文化」なんてものはどういう存在なのか、ということについて、岡さんが数学の発見をされた時には「発見の鋭い悦び」や「生命の充実感」があって、人間の「創作」や「芸術」はそこから生まれてきて、「前頭葉に宿る創造の精神、つまり前向きの精神こそ、人間の本質である。知能を高め、教養を身につけ、文化を形成してゆくことができるのは、全て創造の精神があるからこそ」であるけれども、戦後教育のように型にはめたものは、害でしかないからやめるべきだ、と僕が生まれる前くらいからずっと主張されてきたそうだ。ということは僕たちはすっかりそんな「創造の精神」を失っていると言えるし、実際、文学も芸術も、そして建築もだ!今作られているものが数百年後に、国宝になりうるか?といえば、まず No!だと考えれば、やはり失ってしまったと言わざるを得ないのかもしれない。

でもかろうじて、国宝級のものを見て、何か心の奥に感じるものは残っているのだと思うし、その微かな細い糸を、少しずつ太くしてゆく努力を続けるしかないと思うし、僕のささやかな建築創作もそこを目指しているつもり、でございます。