坂口安吾

  • 2011.05.15
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少し前に読んだ磯崎さんの「建築における日本的なもの」に引用されて読んだのですが、こんな大切な本はもっと早く読んでおくべきですよね。お恥ずかしながら。
坂口安吾という人は、生きる事と文学(彼にとっては生きる事と同義)にただ愚直に向き合って来た、とそれだけなのかもしれないけれど、それだけだからこその骨の太さに大変共感を覚えます。
つまり、形になり、形式化した表面上の事というのは生きる事と対峙するためには邪魔にしかならないというか、だからブルーノタウトが見いだした、表面上の、形式上の「日本」なんてものには価値は認めずに、刑務所や工場といった、ありのままの建築物に美を見出す。
また「文士は常に、人間探求の思想家たる面と、物語の技術によって訴える戯作者の面」が存するものだとありますが、これは建築もですが、人間に関わる職業全てに敷衍して考えてみるべき言葉だなと思います。
ちょい長いですが続堕落論にて「人は無限に堕ちきれる程堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくい止めずにいられなくなるだろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母体であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。」
「反骨」と評されるようだけど、僕にはただ「正直」だとしか思えないかな。
世の中が「カラクリ」に溢れ、それを「きびしくみつめる」事をしないから坂口安吾の言葉が際立つんでしょうけれど、でもこういう考え方をしなければ、人間の「生」というものがますます空虚になるしかないように思います。
建築という形をつくる自分としても、表面的、形式的な建築が生の動的な部分を殺してしまわないためにどうしてゆくべきかという事を考え続けなければいけないなと改めて思いました。