中動態の世界

  • 2017.09.22
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「中動態」正直聞いた記憶がなかったけど、書評で読み、僕の最大の関心事に何か答えをくれそうだと思い、また小林秀雄賞も取ったらしく 、それでw
その関心事、とは、以前に書きましたが、ピラミッドやマヤ文明や、ラスコー壁画や、というのは、今の我々が思っているような、意識や意志、というものを感じながら作ったものでは決してないのではないか?蜂の巣や蟻塚を彼らが作っているものに近い、つまり自分の意思などではなく、もっと大きなものを感じて、それに突き動かされて作っていたのではないか?そして、現代の作家性のような、自らの意志で作っている(と思い込んでも半分は無意識だろう)と思っているものは、その突き動かされて作られたものの質を決して超えることはできないのではないか??ということでして、それが僕に取って大切なのは、建築設計をするための創作態度として、そのような突き動かされるようなあり方を感じつつやらなければならないのではないか?と思っているからです。と、僕のことはとりあえず置いておいて。

中動態、というのは僕らがよく知っている「能動態」つまり自らの意思で何かを行う、「受動態」その能動の対象として何かを引き受ける、という二分法の間に実はどちらとも言えないものが沢山あって、どの国にもあって、歴史を遡ると、西洋でも日本でも、昔はそのどちらにも属しないものが先行して言葉の中にあったようで、それこそが中動態、と。例えば銃で脅されて盗みを働かされたとすると、それは実際は自分でやっているが、能動なのか?というと確かにグレーだ。また、自らの意思で決めた!と思っているようなことも、全ては周囲に色々影響された結果で、最後は自分で決めたつもりでも周りに背中を押されているようなもので、それを純粋な「意志」と言えるかと言えば、それもやはりグレーだ。

そして、何故、意志なんて現れたかというと、ある人に責任を負わせるかどうか判断するときにその意志を持っていたかどうかが重要だから、国家ができ、責任が問われるようになると、ある(犯罪などの)行為が、誰の意思で行われたか?をはっきりする必要ができたからだ、だからその前にはそんな意志の有無は問われなかったから、言語の中にもそれは存在していなかったのではないか?ということだし、言語を考古学的に見てゆくと、実際そうらしいのだ。また、僕らは自ら選べばなんでもできる、みたいな「自由意志」を持っていると思い込んでいるけれど、結局、自分の置かれた状況や経験などに無意識的に強く影響された結果でしかないので、決して「自由」なものではなく、本当に自由だ、というのは「スピノザによれば、、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、我々は自由であるのだ。ならば、自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することが求められよう。自分はどのような場合にどのように変状するのか?その認識こそ、我々が自由に近づく第一歩に他ならない」と。。ちょっと長くてここだけ読んでも分かりにくいけど、僕の中では大事なポイントなのだ。つまり能動でも受動でも、色々な周囲の状況に影響されて、自らが何かをしたり、変化をしたりするのだけど、人間であれば人間の本質として、らしくないことをするのではなく、人間の本質に沿った行動なりをすることこそ、つまり人間の本質に沿わないことに突き動かされないことこそが自由だ、というわけで、僕はそこはとても共感するし、冒頭の、ピラミッドなどの話は、そういった意味で、作った彼らは人間として自由だった結果だ、と思う。

この著者も哲学方面の学者さんのようだけど、学者さんはどうも、動物と人間を(僕のように)比較するのはお嫌いなようだけど、それも近代科学はキリスト教の元?に成り立ち、キリスト教は進化論を肯定できないのと同じ構図なのかもしれないけど、厳然として、人間は動物なのであり、動物的あり方から少しずつ変わってきたに間違い無いのだと思うけれどなあ。

紹介しきれない面白いところも沢山あったので、ご興味あれば(無いか)是非読んでください。