一休 水上勉

  • 2016.05.10
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アニメの一休さんは僕らの世代には馴染み深いですが、型破りな坊さん、という面では一休を表現したものかもしれませんが、それ以外はあんなではなかったようだし、更には破戒、風狂僧であったというのも一休のつくり話で真面目?な僧だった、という説もあるらしい。

でも水上勉は、破戒的な中でも最も大きな、老いた後に出会った、若い盲目の女性との色情にのめり込み、88歳で生を閉じるまで寄り添った、事を真実とし、その意味に大きな焦点を当てるのですが、一つには目が見えるから形に囚われ、全てが「空」であることが見えなくなるけれど、元々目が見えなければ形に囚われる事もなく、空であるのみ、という意味で盲目の彼女の奥底に大きな共感を覚えた、というのと、僧だけ何故煩悩から遠ざかる必要があるのか?庶民に仏法を説く立場として庶民と同じ煩悩に堂々と浸りながらも仏法も極める事ができるはずと考えていた、と作者は読みます。つまり「一休(ひとやすみ)は煩悩のある「有」の世界と煩悩のない「無」の世界のはざまにあって、一服する意でもあるらしい」。

目的は仏の道であり、煩悩から離れる事はその手段の一つでしかないから煩悩を禁じる必要は無い、ということかもしれませんが、人間はそんな「型」にハマることを好みますが、サルトルはそれを「くそまじめな精神」と呼んだそうです。

一休の生きた室町末期は、乱世であり、庶民はとても苦しんだ一方で権力者や僧たちも腐敗した権力を求めた時代だったようで、その権力も一種の「型」ですよね、仏の道へ至るために立派なお寺が必要なのか?と考え、決して立派なお寺に安住しなかったり、そんな権力をめざす僧に強く反発したそうですが、教会もそうだけど精神的な助けにはなっても、それは単なる型でしかない、というのは真だと思います。

そんな意味での「型破り」にとても共感しましたが、今の世の中、目的もない型だらけ。壊す価値もない型だらけ、と言った感じでしょうか。せっかく人間という生き物に生まれて来たのですから、その意味と価値を死ぬまで味わいたいと思います。