ウォレス・スティーヴンズ

  • 2012.12.30
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しばらく前に、ルイス・カーンがこのアメリカの詩人ウォレス・スティーヴンズに影響を受けていいると何か(思い出せない。。)で読み、カーンの思想は卒論でも少しかじったのもあってその後もそれなりに読んだりしていたのですが、カーンのあの思想が何に影響されて生まれて来たかについて書かれたものが余りなかったように思っていたので、興味が湧いて買ってしまいました。
ただ、正直僕は「詩」というものを語れる程でもなく、ましてやスティーヴンズという詩人を本書をざっと読んだくらいで語れるわけではないのですが、カーンが使ってた例えば「沈黙ーsilence」はスティーヴンズも主要な言葉として使っていたようだし、詩というものは多分、言葉というものが次第に硬直化してしまって失ってしまった、何か、生きるという事と生々しい関係であった何かを伝える為に存在するのだというと考えれば、カーンが語っていた事たちと「詩」というものが本質的に同じだったのだろうと改めて思いました。
そう。建築も次第に硬直化してしまって、最初は生きる、という事と生々しく関わっていたはずなのにそれを見失ってしまった。それを取り戻すというのは硬直化してしまった言葉をいくら並べても不可能だから、だからこそ詩人のように、詩のように語るしか無かった。そしてだからこそ頭の硬直化してしまった我々には簡単に理解できず、何言ってるんだろ??となってしまうんだと思います。
そんな文脈で,本書より少し引用します。
「実のところ、大人で自然を見る者はほとんどいない。ほとんどのひとは太陽を見ないのだ。少なくとも彼らはとても表面的な見方しかしていない。太陽は大人の目を照らすことしかせぬが、子どもの眼や心の中に差込むのだ。自然を愛する者とは内なる感覚と外の感覚が互いに未だ真に釣り合っている者のことだ・・・裸の地面に突っ立ち、私の頭は楽しげな大気に侵され、無限の空間に持ち上げられると、全てのちっぽけな自己中心癖は消えてなくなる。私は透明な眼球になるのだ。私は無だ、私は全てを見るのだ。大霊の流れが私の中を巡って行く。私は神の重要な一部となるのだ・・・静寂な大地において、特に遠方の地平線に、ひとは自身の本質とおなじくらい美しいものを眺めるのだ。」
何か伝わりましたよね。