イギリス人アナリスト日本の国宝を守る

  • 2015.02.07
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まず、著者のデービッド・アトキンソンは元ゴールドマンサックスで日本の銀行の不良債権問題で、銀行と国が共謀して額を小さく見せていたのに実態を暴いて、脅迫されたりそんな日本の理不尽さに愛想を尽かせたけど茶道を通して日本の素晴らしさも知り、その縁で文化財補修を手がける小西美術工芸社の社長に何故かなったという。

不良債権問題でも明らかだけど、「数字に基づいた分析」をきちんとしないのが日本人で精神論や思いこみが多い、つまり「サイエンス」が足りない。と言うのだが、まあそれは日本人も気付いてはいても何故できないのか?しないのか?ですよね。日本の今の財政状況は本当に問題だから、本当はサッチャーがやったような事をすべきで、サッチャー回顧録より「『援助に値する』貧困と『援助に値しない』貧困の区別である。ともに救済してしかるべきである。しかし公費の資質が依存文化を強化するだけにならないためには、両者への援助は随分違った種類のものでなければならない・・・・」を引用し、つまり数字に基づいた分析により、上記の区別のような決断をすべきなのに、日本人にはそれができない、と。確かに小泉改革も勢いはあったけど、実際随分偏ったものだっただろうし、鉄の女、と呼ばれたような冷徹な分析をもとに決断、というのは日本人には馴染まない。
でも一方で、最近行政のやる事をみていると、数字を本当に都合良く使って、価値の無い事の根拠付けに使っているように見えるけど、そんなのは分析ではなく、言い訳の道具だろという感じですよね。そこは今後もなかなか変わらないだろうし、著者もそれが変わるとは思っていないとは思いますが、アベノミクスもつまりは国力をあげるための取組みであるけれど、策の中には大した効果がないものもあり、つまり、農業みたいに既にGDPの1%しかないものを改善しても効果は薄く、他国と比較してまだ伸びしろと可能性があるものとして「観光」であると。また日本には京都に限らずまだ寺社など残っている方で、でも文化財保護も最低限の今年かやっていなくて、「海外において文化財保護の基本はpreservationとpresentationの両立」つまり保存とアピールが必要という意味で後者が全く欠落しているから観光に結びついていないという。
それはそう思うし、以前も書いたかもだけど、日本の近代以降ボコボコできている安っぽい建物や電線やアスファルト舗装などが日本の景観の価値をすっかり台無しにしてきたのだから、その価値が少しでも上がるように、道路も距離ではなく質を高めたり、設計料に補助をしたり(医療だって当然のように補助されているわけだし)する事で共有財産である景観の質を高める、というのがひいては観光収入にもつながるしその価値は十分あると、思います。
著者は日本の大工とか全く知らずに経営的な能力で社長になり、文化財やその状況を多く見て来た中でそう思ったようだし、実際著者の祖国のイギリスでは文化財の補修に日本の6倍(人口、GDPは半分ほど)かけて、例えば大英博物館だけでも京都府全体に訪れる外国人観光客が2倍もいるそうですが、様々な波及効果を考えるとやはり大きな違いだなあと思います。
さて、何故日本はそうなのか?まずは木造というものは、震災や大火を通じて、また西洋化を通じて、基本否定すべきものだと思ってしまっているから、そんなに思いが込められない、力が入れられない、というのがあるのではないかと思うし、実際、文化財たちは現行の建築基準法に適合していないので、大改修や建替えに際しては、同じように無理矢理表だけでも木造でやろうとすると、恐ろしい手間とお金がかかってしまう、という事も足を引っ張ってしまっているのだと思いますが、著者はそこまで踏込んでいません。
建築設計の世界に身を置いてたまに思うのは、近代以降私たちがつくってきたものが、そのうち国宝になるような価値があるのか?恐らく、経済原理でつくられるという制約や、建築界の中での自己満足的な表現の結果として、無理じゃないかと思うけど、それで本当によいのだろうか?数百年、千年(人間がいたらですが)後の世代から、僕らの時代は本当にろくなものを残さなかったね、と言われるんじゃないか、と悲しく思ったりもします。