ていあん
コの字平面の平屋です。
基本的には余り囲いすぎるのは窮屈に思うのですが、それなりに敷地が広いので中庭も結構広く、また手前はガレージ越しで、ある程度透けた感じとして程よく囲われ、光と風は通るような雰囲気です。
「窮屈な」とういのは物理的にもそうですが、結局気持ちが窮屈さを感じる空間というのは建築的には失敗と言わざるを得ないので、同じ広さであってもいかに伸び伸びした気持ちを感じられるかというのは設計の良し悪しでもあります。
僕が囲う方が良いと思う場合は、普通に大きな窓をつけても、視線や外界が気になってカーテンなどを閉めたくなってしまう場合、そんな時には少しでも囲う事によって、窓を気持ちよく開けられるようにしたいと思います。まあ当たり前の話なのですが。
まあでも、住宅というのは本当に色々な側面を持っているので、本当に難しいですね。
そして、もっと感性を磨く事で、もっと良くできるだろうから努力しないと、と思います。
裏を返すと、そんな感性でつくられたと感じる住宅が悲しい程少ない現状だとも。
文化が成熟する社会には、成熟した市民がいたように、そんな感性をもった一般の方が増えなければこの現状は変わらないのかもしれません。というのが昔から持っている問題意識。
日曜や夜に色々な事をやっているのも、奥底にはその問題意識があります。
と結局は飲んで笑っているのですが、土曜日も大笑いでしたね(^^)
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サンディカリズムという概念にお恥ずかしながら馴染みが無かったのですが、確かに「輝く都市」なんかの発想はそれだからこそ出て来たのかもしれないようですね。
ちょっと調べていて東秀紀さん「荷風とコルビュジェのパリ」で、荷風は裏町に惹かれ、表通りなどできるだけ見ず、一方のコルは裏通りを否定し、パリはさらなる再開発こそを求めていた、というのがあって興味深く、合点が行ったところがありました。
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先日。都市計画家さんと商業コンサルさんが意見対立してる場に居合わせてしまいまして(困りますよねw…汗)。
都市計画家はやはりまだ「100万人の世界都市」の現代版(超高層と足下の空地)やら、表通りの軒高の問題と広場を論じているのに対し、商業系の方は「路地裏の賑わい」の可能性を論じていて、かみ合ってないなと。
ただそこにいた元官僚の計画家(つくば科学博を企画した人、アラン・ジェイコブスの翻訳した人だそうで)がどっちもズレてると言っていたのが印象的でした。
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その元建設官僚氏のおじいさんに、広場が計画されるというより。
例えばネットワークの掲示板とかスレッドでは「この辺が賑わいそうだな」という所から人が集まり…サロンが成立し、事実上無限の広さがある(空間と言えるかどうか?w)サーバを増設したり定義することで「広場(フォーラム)」と呼べるものが事後的に固定化され成立する。
それは封建社会ではもしかしたら”王様”が「ここはいいね」と言ったら強権発動して広場が作られたことなどに似ているのかも知れない。(サンマルコ広場とか、計画して云々と言うより、あっちを避けこっちを引っ込めて出来てるように見えます)
といったらおもしろがって貰えました。
えらい人達ってそういうことも(興味がある割に)考えないのかなあ・・・とか。
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振り子の両端に居て、地位があればある程、反対側の事をどうも軽んじるのでしょうか。。
5年、10年前にまちづくり活動にハマって学んだ事は、「協働」という言葉は、そんな振り子の方端の自分の立場を誤摩化すのではなく、自覚しつつ、逆端の立場の理解をいかに努力するかという姿勢に尽き、でも実際そんな意味での協働というのは皆無に近いということです。
もちろん行政でも分かっている方は沢山いるのですが、結局立場が許さないというか。。