民家は生きてきた

  • 2013.08.15
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「民家研究の金字塔となった名著、待望の復刊」だそうですが少し前に書いた二川幸夫さんの「日本の民家」の展覧会に併せて可能となったようです。
まあ研究の書ですから退屈な記述も多い厚い本ですが、解説などでも触れられている通りタイトルの「生きてきた」というところに著者の強い意思表示があり、それが通底して感じられます。なじみ深い所で、白川郷について、長いですが。
「いずれにしても白川郷の合掌造は封建制の重圧と山間僻地の低い生産性のもとに生まれでた悲劇の民家形態ということができるだろう。合掌造はほろびなければならないし、またほろびさりつつある。重苦しい生活がくりかえされ、オジ・オバたちが逃亡しなければならなかった時代においては、たとえ憩いの日があったにせよ合掌造は憎しみと嘆きの象徴でもあったろう。しかし農民の高らかな凱歌があがる今日では、悲劇の合掌造もたくましい壮大な白川農民の記念碑として、高く位置づけられるだろうし、また敬愛の心をもって保存しなければならないと思う」
まず白川郷は農業の生産性も上がらず、当時養蚕が広く行なわれていた中で少しでも養蚕で稼ぐために2階を大きくしたり、この合掌の形だと大工に余りお金を払わずとも自分たちである程度作れる、という事情があり、「悲劇の」と形容され、オジ、オバとは長男以外の存在のことで、随分肩身の狭い思いをさせられていて、その現れがこの合掌造でもあった、ということらしいです。
世界遺産になったのはまあ仕方ないとして、こんな歴史を知らずに無批判に高らかに凱歌をあげていてはけないのですよね。
こんな調子で日本各地の民家たちが、その背景の中でいかに形づくられて来たかということが書かれていて、今の状況やただ古い、という事だけで守らなければ、などと言っているから本当に残すべき物が壊され、残さないで良いようなものが残されているのかもしれません。
「もし私の民家の心を代弁するのを許して頂けるならば、こういいましょう。民家はいつも愛されている事を求めているとともに、知的な人からは思想をぶっつけられて対決することを求めています、と」というのも同じ事で、厳しい眼に曝してもらい、価値を見極めて欲しいという事なのでしょう。
もちろん当時の大工に個人的な知的な思想があってつくられたとは思いませんが、その時代、その地域の集合知としての良い結晶だけが残っているわけで、現代一建築家がいくら自分の思想でつくっていると言い張っても所詮その時代、場所などに大きく影響されているという意味では、今の私たちも自分の時代や地域、というある種の限界の中で精一杯の仕事を結晶させる事しかできないし、後世永く残り、そんな知的な思想をぶっつけられる事が来る事を祈るだけなのかなと思います。