新建築11月

  • 2014.11.09
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竹中大工道具館新館。もちろん竹中工務店設計施工ですが、私が大阪で師事した徳岡先生は竹中にいらっしゃったからひいき目なのもありますが、他の大手ゼネコンとはものづくりの意識のレベルが違うし、自社設計施工のものでも自社の中でかなり厳しい目でチェック?されるような風土があるようです。

それはおいておいて、本号は木造特集でして、前にも同じことは書いていると思いますが、昨今の木造ブームで大きなものがどんどん実現はされてはいても、美しいと思えるものはかなり少なく、無理に木造でやらない方が表現としてもずっと良かったのに〜と思わされるものが多いですが、それは多分大きなものを木造でやることによって、集成材になったり、構造体がやたら太くなったり、複雑になったりするけれど、この表紙のは唐招提寺金堂の一部を再現したそうですが、こういう複雑なりの時代の洗練というのをまだ経ていない、思いつきで面白げだけど美しくないものばかりじゃないか、と感じます。この道具館も、鉄骨造で表現として木をうまく使っていますが、無理矢理木造でやらなかったからこそ洗練を保てたんじゃないかと思います。

前も書いたかもしれませんが、僕が目指したいと思っているのは、ミースがもしガラスと鉄ではなく、木と左官でつくるとしたら?というものが恐らく目指したいのかな、つまり、日本木造が1000年かけて洗練させたものを、ミースは自分ひとりで成し遂げたように思うのですが、それは美意識の洗練、と乱暴にまとめてしまえばそう言えるように僕は思っています。

一方でコルビュジェについて考えるのは、多くの手法を提供しすぎたというか、発言し、書になり、弟子を沢山生むことで、目的が手段化してしまったというか、目的は美しいものをつくることなのに、こうやれば美しいものができます、というマニュアルに従う事が設計と考えるような社会になってしまったように思います。その結果のひとつが美しくない大きな木造。

美しさだけかい?と突っ込まれるかもしれませんが、まあ広い意味で心を揺り動かすというか、用強。

美の美は単に美しさではなく、そういう心に作用するものを広く指す、というよう事を槇さんが書いてましたが、そんな意味です。
そこで思ったのは、僕らはコルビュジェをきちんと卒業しなければならないんじゃないか?ということと、今の若い世代なんかは、コルビュジェは昔の存在だと思い始めているようにも思いますが、実はとても大きな影響を与えられているという自覚をまず持たないとまずいんじゃないか、ということです。