新建築3月

  • 2014.03.05
  • BLOG

「木造の可能性」特集で、表紙のはMOUNT FUJI ARCHITECTS STUDIO設計の美容院。同じような事を何度か書いたと思いますが、集成材の大断面の木造って、間伐材やらの有効利用になって良いのかもしれないけれど、見た目はムクの良さはないしこれにしても僕は梁は鉄骨で1/3位の成でデザインした方が建築としてよっぽど美しいと思うから、こういう木造の必然性が感じられないのは止めた方が良いと思う。

でも坂茂さんの「ビラ仙石原」は木造である事の良さがとても出ていて流石だなあと思う。

画像右上のは隈さんがフランスにつくったブザンソン芸術文化センターですが、良かったらネットでもっと見て頂きたいけれど、こんなものフランス人の美意識にかなっているのだろうか?と真剣に思うけれど、この「透かす」様々なやり方は恐らくコンペのプレゼン時にはとても映えるから選ばれ、そして隈さんも繰り返してるんじゃないかと思うけど出来た時の軽薄さをきちんと振り返った方がいいんじゃないかな?と思う。何から何まで透かす必要がどこにあるんだろう?

そして、震災3年という事で建築家たちからの文が特集されてます。

何人かの建築家?があんな大きな事があったのに「忘れてしまう」事について何となく非難しているのだけど、昨日の「空気」の話と同じで「『忘れるな』と叫びながら、なぜ『忘れる』のかの原因を『忘れてしまう』」のが私たち日本人だ、と言えないだろうか?そしてその「何故?」こそ書くべきだし、そもそも津波のあの大被害は100年単位の以前に起こった津波を「忘れた」から起きた事であって原点はそこだと思うのだけどざっと読んだ限りそういう切り口は見当たらなかったように思う。

また、伊東豊雄さんは、建築家と行政や社会との間の「壁」を取払う事で感じられる設計の喜びや楽しみを得るために「まず『建築家』という立場を一旦捨てる事しかないように思います。『建築家』からひとりの人間に戻る事ができれば『お上』もひとりの人間に戻る可能性があります。。。」と。

これも以前も書いたような事だけど、そもそも日本では建築家なんて「自称」でしかないし、僕は建築家だなんて思ってないし、喜びや楽しさは得ているつもりだし、その「壁」は建築家先生たちが勝手につくったんじゃないですか?とも思います。
まあ、そんなに単純な事じゃないですが、これも「建築家」という「空気」なんでしょうね。