新建築1月

  • 2012.01.16
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隈研吾さんのメム メドウズ。トステム建材産業振興財団が競走馬の牧場をサステナブルな建築、都市のあり方を追求する研究、教育、研修施設へと転換するためにつくり、今後も毎年コンペで選ばれた1棟が建てられ、将来は「世界に例のないサステナブル住宅ビレッジ」になる、そうです。
そしてこれは、アイヌの伝統的住宅<チセ>、屋根も壁も萱や笹でできていて、大地にゴザを敷いて年中炉で火を絶やさぬ事住まい方をヒントを得て現代の材料でデザインをしたそうです。
隈さんのつくるものは、今までの建築を脊椎動物とすると無脊椎動物、つまり死んでも骨格が残らず表皮は柔らかく自由な感じがしますし、サステナブルー持続可能という意味では、脊椎系でも無脊椎系でもそれぞれに可能性があると思われる中で、後者に当たりますよね。で、世の中のほどんどのものも後者に当たるように思いますが、それは何故かと考えると、これも「産業振興財団」とやらがつくっているわけで、前者の考え方では決して産業振興にはならない?からじゃないかと感じます。
僕としては前者の、骨格がしっかりあり、長寿命である事によって環境への負荷が小さくなるものを(住宅や公共のものは特に)目指したいと思っていますが、寿命が短くとも本当に3R(Reduce/Reuse/Recycle)がきちんと考えられていれば良いとは思います。でも表向きに言われている事たちの裏側では決してそれはうまく行かないのではないかと感じることもあって疑問に思うのです。
まあ今の社会構造がそうなってしまっているのですが、つまり、後の面倒は誰も見ない。つまり売り逃げ、やり逃げ。大企業も政治家も。数十年後に発言やつくったものの責任が問われる事が(余程でなければ)ないんですから自ら身を守るしかないのだけど、「地球ー環境」という身は一体誰が責任をもって長期的に守るのか?宇宙船地球号なんて言葉はただの美しいかけ声で終わるのだろうか?
僕は元々決して今作っているような構造が思い切り出て大きな屋根がかかり、自然素材でつくられるような住宅が一番良いと思っていた訳ではないのです(告白ですねw)が、現代、百花繚乱状態の建築デザインの中で冷静に謙虚に考えると、やっぱり僕が残すべきものはこうなのかな、と行き着いただけというのが正直なところです。丹下さんの弔辞で磯崎さんが、<WILL>の二つの意味、遺言と意志について語った事と同じく、やはり建築設計をするという事は大小はあれその二つを背負っていかなければならず、またその強度こそが重要だと思いますが、そんな意味で隈さんは(丹下的なものを否定するのだから当然と言えば当然ですが)その強度を持たないのだと。。
こんな考え方は既に時代錯誤なのかもしれませんが、僕はやっぱりそう信じます。