レオナルドダヴィンチ論byヴァレリー

  • 2014.02.02
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今まで近寄りがたく深い興味も持てなかったけどダヴィンチを知りたくなり、どうせなら深層に近づけるかとヴァレリーを選んでみました。
やっぱり前半の「方法序説」とかは頭痛くて流しましたが後半は読み易くとても良かったです。

「レオナルドは、画家にとってのモデルとしただけでなく、自分がそうだった発明家にとってのモデルとして、生きた自然を採用したのであり、確実に次の事を学んでいた。この自然は、その不可解な働きにおいて、全体と細部、形相と質料、目的と方法を決して分離しないということ、それだからこそ、自然はわれわれにとって模倣不可能、つまり、理解不可能であるということを。」

「絵を描くことは、レオナルドにとって、すべての知識、さらにはほとんど全ての技術を必要とする活動である。幾何学、力学、地質学、生理学など。」
「この人物のうちに、きわめて意識的であるために、芸術と科学が解きほぐせないほど混ざり合っているような仕事の典型を認めた」

裏を返すとダヴィンチの時代は既に、そして現代はさらに、自然や科学や芸術などは、バラバラに分類されてしまっていて、「真実」が見えなくなってしまっているけれど、ラスコー洞窟に絵を書いたような、観察と感性と描く、という事が渾然一体となったようなやりかたに更に様々な科学的な観察や思考を併せて行ったのが彼だという事です。

また「レオナルドのうちに、『王者の無関心』と呼びたいものを私は見てとる」つまり、特定の問題に無関心つまり、あらゆるものが問題であり、科学や芸術などの区別にも無関心であり、栄光にも無関心であり、その証拠に彼が残した手稿は全く「彼ひとり」のものでり誰かに何か伝えたいという意図が全く見られないと。

と、読んで来まして、どうも仏教的な「無」に近いのではないかなあと思いましたし、そちらには興味があるのだけど、僕も設計する立場として「無」の境地なんかに行っちゃったら建築自身も否定するしかないからそう創作すべきなんだろう??と思っていた所だったので、もしかしたらダヴィンチ的なあり方というのがあるのかもしれないなあと、漠然と思いました。

また少し追求してみたいなと思います。